第一部 電力王への道

 電中研の創設者である松永安左エ門は、「電力の鬼」と呼ばれ、電気事業の世界だけでなく、産業界、政財界などに多大な影響を与えた人物である。安左エ門の鉄のような意思は、戦後日本復興の活力の源となり、現代に通じる先見性にあふれていた。電中研誕生につながった安左エ門の人生と思いをここにご紹介したい。

 明治8年に壱岐島の旧家に生まれた安左エ門は、14歳で福沢諭吉を慕い慶応義塾へ入塾する。諭吉にかわいがられるなかで、人生形成について大きな基盤をつくった。常に10年、20年先を考え、自分の利益だけでなく日本という国の将来にターゲットをあてて物事を見極める目は、この時に培われたものであり、生涯貫かれた信念であった。父の死去によって慶応義塾を中退し、家業を継ぐが3年で廃業となった。その後、慶応へ復学するが、卒業を待たず中退し、日本銀行に就職した。しかし、サラリーマン生活になじめず1年で退職し、材木商、綿糸ブローカー、石炭商、コークス商などを試みた。特に、石炭商で大儲けし、人脈ができた。その人脈によって北九州での電力に目が向き、のちに九州電気株式会社を設立、電力業経営へと注力していく。

 当時の日本では、財閥が日本全体の富の7割を占めており、政治や産業界に大きな影響力をもっていた。しかし、安左エ門の持論は、産業は自由競争の立場で企業者は創意工夫をしながら大成してゆく、というものだった。加えて、安左エ門は自分が正しいと思ったことは権力に屈服しない、筋金入りの反骨精神の持ち主であった。この曲げることのない持論と安左エ門の人柄も手伝って、九州から関西、東海道の電力会社を次々と傘下にしていった。大正12年に起こった大震災で被害を受けた東京、横浜の電力会社は安左エ門に助けを求めた。人を何よりも大事にした安左エ門のもと、当時副社長をしていた東邦電力の社員は物に憑かれたように一糸乱れず、火の玉のごとく目標に向かって突進していくほどの働きぶりだった。こうして、安左エ門は東邦電力を中心として、東北電気、東京電力など約100社ほどを支配下にしていった。

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松永安左エ門

松永安左エ門 エピソード1

『電話では熱がありません』

 安左エ門が綿糸ブローカーを始めたころ、綿糸商に素人と見抜かれ、わからない質問ばかりされた。その質問に答えるべくメーカーと綿糸商の間を走って行き来した。「電話をすればいいだろう」というメーカーの言葉に答えた、安左エ門の言葉。このあとも様々な事業を試みるが、何事にも一貫して情熱をもってぶつかっていった。非凡たるその姿に感心し、協力する人たちによって事業はさらに大きくなっていった。