松永安左エ門

松永安左エ門 エピソード2

「近代の三茶人」のひとり

 安左エ門は、「耳庵(じあん)」と号をもち、「鈍翁」益田孝(三井物産社長)、「三渓」原富太郎(横浜の大生糸商)と並ぶ「近代の三茶人」のひとりとされた。58歳で茶道に出合った安左エ門は、箱根や小田原にも茶室を建て、自らの財を投げ出す覚悟で高名な茶器を必ず入手し、手元に国宝級の品ばかりを残した。敗戦後、安左エ門は感ずるところあり、所有していた庭園ほか美術品を帝室博物館(現在の東京国立博物館)などに寄贈し、東邦電力時代から所有していた東方電機産業研究所の土地も母校慶応義塾に寄付し、自ら小田原(小田原市郷土文化館 ホームページへ)に三間の家を建て移り住んでいる(壱岐の生家跡に建つ「松永記念館(壱岐市観光案内ホームページへ)」には生前愛用した多くの遺品も残されている)。

第二部 軍国主義に反発し、電気事業から引退

 やがて日本は、軍部の統制が強まり、国家において電力の送電と発電を統制管理すると発表した。日本の発展は産業界の成長なくして行われないとする自由主義経済を唱えていた安左エ門は、電力国家管理に反発して、「(軍部と手を握った)官僚は人間のクズである」と言い放ち、身の危険を顧みず反対運動を続けた。

 しかし、昭和12年「電力国家管理案」は国会で通過し、翌年日本発送電(株)を設立、昭和14年には戦争に突入した。安左エ門は、「俺は会社をやめる」と言い残し、一切の事業から手を引き隠居してしまう。すでに61歳になっていた安左エ門は、埼玉県所沢にある柳ケ瀬山荘で茶道三昧の日々を送ることとなる。このとき、すでに欧米の数々の電力施設などを視察していた安左エ門は、欧米の工業力、技術力に日本が到底勝てるはずがないと確信しており、これからの日本を思うと心中は暗かった。

 終戦を迎えた昭和20年。安左エ門が現役を去ってから、すでに10年の月日が経っていた。安左エ門、74歳。占領軍総司令部(GHQ)の支配下となった日本は、民主化政策として財閥解体、農地解放、電力事業の民営化を推進することとなった。電気事業再編のリーダーとしてふさわしい人間は誰か。電気事業を知り尽くし、軍国主義に屈しなかった人間。それはまぎれもない安左エ門であった。こうして、安左エ門に白羽の矢が立った。

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