第三部 再び表舞台へ、そして電中研を設立

 安左エ門は、戦後の日本復興を支えるのは電力であり、電気事業の競争による発展が欠かせないとの信念をもっていた。安左エ門の構想は、戦中の日本発送電を含むすべての設備を分割し、九つの配電会社に配分し、地域ごとに電力配給の責任をもつ「九分割案」体制であった。しかし、「中央の日本発送電を残す案」を推薦する安左エ門を除く他の委員や財界人とも、「十分割案」を考えていたGHQとも意見の一致をみなかった。

 そこで、安左エ門は時の通産大臣、池田勇人を訪ね、日本の復興と電力再編成について熱心に持論を説明し、まず国の発展を優先させる主張を展開した。その熱心さに池田は感心し、安左エ門案を了承した。とはいっても、池田が賛成しても国会が通らなければ決議はされぬとの反対派により、さまざまな画策があった。安左エ門は抵抗に屈することなくGHQへも足繁く通い、自説の説得にあたった。GHQは安左エ門の並外れた熱意と誠実さに惚れ込み、次第に信頼関係を築いていった。講和条約の成立によって占領地行政を早く終わらせたかったGHQの意向も追い風になり、総司令官マッカーサーより安左エ門の案が命令されたのである。孤軍奮闘のなかにおいても、安左エ門の根気強さが勝利した瞬間であった。

 昭和26年「九電力体制」が整うと、まず着手したのは研究所の設立であった。安左エ門は東邦電力時代から学者や技術者を大切にし、養成教育に力を注いでいた。その人々が立派に育ち、敗戦日本の再建に多いに活躍していた経験から研究資金や人材育成の資金負担を軽減し、活性化する必要性を強く感じていたのである。こうして昭和26年、電力技術研究所を設立した。さらに、電気事業の技術研究だけでなく、より適正な料金体系の研究やコンピュータなどの設備に対応する経済研究部門を併設し、電力中央研究所に改組した。 初代理事長には前日本発送電総裁の大西英一氏が就任し、2代目には安左エ門が自ら理事長となり、電力設備の近代化と電源開発を推進するリーダーシップを発揮していった。

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松永安左エ門

松永安左エ門 エピソード3

『登山の功徳は数えきれないほどある』

 毎年夏に登山に出掛けていた安左エ門は、人生を登山に例えてこう言っている。「面倒だの、億劫だのという贅沢は山が許さない。道という道もなく、水を求めるにも困難である、最大危険を冒し、最大努力をもって、緊張の連続で一瞬の油断も許されない。道を探し求めて決断力も必要である。最大の辛苦と闘い、やり通した確固たる信念をもたなくては登頂ができない。山登りに必要なのは、度胸である。また、度胸だけなく一歩一歩堅実に踏みしめ、軽率と不謹慎を慎む心も必要である。人生もまた同じである」山登りが好きで登っていた安左エ門であったが、そのころ発電が水力であったため、単なる登山を楽しんでいたのではなく、川の流れや山へも鋭い目を注いでいた。何事にもトコトンやり通すのが安左エ門の生き方である。