社会経済研究所

社会経済研究所 コラム

2016年10月17日

「地政学」について

社会経済研究所長  長野 浩司

 2016年7月16日配信の当コラム「英国のEU離脱国民投票に思うこと」(注1) の末尾に、「エネルギー地政学」研究の展開について、一言申し上げました。

以下では、現時点で私が構想していることについて、私がそのような考察を組み立てる上でとくに有益だった参考資料(書籍)を振り返りつつ、概略をお示ししたいと思います。 門外漢ゆえの誤解や無知、無理解が多々あろうかと存じますが、大枠としての構図だけでもご覧戴きたく思う次第です。

 「地政学」を辞書で引くと、たとえば「民族や国家の特質を、主として地理的空間や条件から説明しようとする学問。スウェーデンのR=チェーレンが唱え、第一次大戦後ドイツのK=ハウスホーファーが大成。ナチスの領土拡張を正当化する論に利用された。地政治学。」(注2)といった説明があります。

前段の「民族の国家の特質」を個別に理解するだけでなく、今日では国家間、あるいは非国家主体をも視野に入れた力学や、それがもたらす(協力もありますが、より重要な側面である)摩擦や紛争という相互作用により力点が置かれるでしょう。

○地政学事始め

 もともと理工系の私が地政学に類するものに初めて触れたのは、20年前の1996年にベストセラーとなったカルダー著「アジア危機の構図」(注3)でした。欧米諸国ではまだ理解が十分でなかった極東アジア地域の地政学的構図を、経済とエネルギー資源が安全保障に及ぼす影響というトライアングルに着目して論じた、当事者である日本人としても十分に刺激的な書でした。

 次に挙げたいのは、これも大ベストセラーになりましたが、ハンチントン著「文明の衝突」(注4)です。国家という枠を越えて、「文明」という視座に立脚した世界観を提示し、それらの境界線で紛争や戦争が起こる蓋然性が高いこと、とくに(支配側だった)「西欧文明」と(その支配を免れた)「非西欧文明」の間の対立が本質的であることを論じ、その間の衝突の予防こそが新しい世界秩序の根幹であると提唱しました。

この書は世界的に読まれ、(ハンチントン自身がその思想を提供した、あるいは思想に与したわけではありませんが、結果的に)米国における新保守主義(いわゆる「ネオコン」)(注5)の理論的支柱に用いられることともなりました。

 これに対して痛烈な批判を展開したのが、トッド著「帝国以後」(注6)です。「文明」という視座それ自体を根拠に乏しいものとして棄却した上で、米国はソ連崩壊後に世界的な覇権を握った「帝国」の地位を遠からず降りると予言し、新たな世界秩序はヨーロッパ、ロシア、日本と米国の相互連携によると提唱し、とくにドイツと(自国である)フランス、日本の役割を強調しました。

○最新情勢と未来予測

 ゼイハン著「地政学で読む世界覇権2030」(注7)は、15章にプロローグ、エピローグに補遺、全500ページ近い大部ですが、刺激に満ちた挑戦的な書でした。米国で「影のCIA」とも呼ばれる情報機関「ストラトフォー」の幹部であった著者の渾身の分析が体系的に述べられます。

 本書第1章は、第二次世界大戦終了後今日に至るまでの世界秩序である「ブレトンウッズ体制」の交渉の場面から幕を開けます。米国を盟主とし、米国が自らの市場の開放と、世界的な海運すなわち海上貿易の安全を保障することを軸とする世界秩序に、当初の参加国のみならず後に加わった日本や中国が多大の恩恵を受けてきたこと、しかしシェール革命により米国はもはやそのような世界秩序無しでも支障ない状況に至り、秩序の維持に興味を失いつつある(注8)こと、その結果、米国のインナーサークルに留まることのできる近隣国(メキシコ、カナダ)以外の国は自らの意思と努力で市場や資源へのアクセスを切り拓く必要を生じること。

 この大きな(必然的な)流れの中で、著者は海運・海軍力と人口構成(注9)に注目した分析を加え、中国の崩壊とロシアの自滅、テロや紛争の頻発する混沌とした世界という将来を描き出します。日本も他国と同様の困難を背負うことになりますが、その程度は相対的に軽い(注10)ものとして描かれます。

 本書が提示する世界像には、批判の余地もあります。何よりも、人類の英知を結集することで、世界平和や貿易などを担保する、ブレトンウッズ体制に替わり得る世界秩序を新たに構築する可能性について、何ら言及していません。

私自身、そのような秩序の構築を安易に信じることは、研究者としての自我の放棄であるとさえ感じますが、世界に生きる現代人として常に持ち続けるべき努力目標であることは、忘れてはいけないと思います。

おわりに:改めて「エネルギー地政学」の地平を見据えて

 ゼイハンの描き出す世界の将来像を信じるにせよ、全く異なるイメージを持つにせよ、少なくとも2030年、2050年の世界を現状の単純な外挿だけで想定できると考えるのは、余りに安易と考えざるを得ません。

当所としても、もち得る限りの知識と知恵を総動員して、あり得べき、あるいはより望ましい世界像、社会像を描く努力をしていかねばならないと考えています。

その理解の下に、パリ協定に代表される気候政策の国際枠組みや、エネルギーをはじめとする資源の輸送や取引などの国際ルールの興亡についての検討を展開する。その国際ルールの下に、日本としての国内政策・制度がいかにあるべきかの検討を加える。これが、私が現時点で思い描く社会経済研究所の使命であり、その考察の一里塚を形づくる「エネルギー地政学」の強化を図っていきたいと考えた次第です。

 ご意見、ご批判を賜れば幸いに存じます。

  • 注1:https://criepi.denken.or.jp/jp/serc/column/column03.html
  • 注2:デジタル大辞泉(小学館)。なお、後述のハンチントンの例もそうですが、地政学の生来の特徴の一つに、多様な見解が得られること、よってしばしば悪用を招きがちであることにも注意したいと思います。
  • 注3:ケント・E・カルダー「アジア危機の構図−エネルギー・安全保障問題の死角」、日本経済新聞社(1996)。現在は版元品切れのようです。
  • 注4:サミュエル・P・ハンチントン「文明の衝突」、集英社(1998)。
  • 注5:あえて1冊挙げるとすれば、ロバート・ケーガン「ネオコンの論理−アメリカ新保守主義の世界戦略」、光文社(2003)を挙げたいと思います。これも版元絶版状態のようですが、電子版(Kindle版)で読めます。
  • 注6:エマニュエル・トッド「帝国以後−アメリカ・システムの崩壊」、藤原書店(2003)。私自身、「文明の衝突」はあまりに一面的な理解に過ぎると感じていたところ、トッドの提示した多極間協力による世界秩序という像は、優れて腑に落ちるものでした。トッドは最近再び注目され、繰り返し来日するなど日本でも人気が高いですが、フランス人としてヨーロッパの現状を憂う(たとえば「シャルリとは誰か?:人種差別と没落する西欧」、文芸春秋(2016):「問題は英国ではない、EUなのだ−21世紀の新・国家論」、文芸春秋(2016))あまり、最近はヨーロッパを対象とする著作(とくにドイツとフランスの現体制批判)に偏っているようで、本書以来10年余りトッドの世界観に注目してきた私は、実は不満に思っています。ただし、私が未読の最近刊「家族システムの起源<1>ユーラシア」(上・下)、藤原書店(2016)には、大いに期待しています。
  • 注7:ピーター・ゼイハン「地政学で読む世界覇権2030」、東洋経済新報社(2016)。なお、同書は多くの図表を用いていますが、著者自身認めているように、白黒では判読が困難です。http://zeihan.com/maps/ に本書の代表的な図表がカラーで提示されており、まずはこちらにアクセスすると、本書のメッセージのエッセンスが感じ取れると思います。
  • 注8:当コラム『「トランプ大統領」のエネルギー政策と日本への影響』で論じたトランプ・米国共和党大統領候補の主張やその支持層の思考(米国主導の安全保障体制の下に恩恵を受けている国は応分の負担をせよ)は、優れてこの傾向と歩調を同じくしていると言えます。決してエキセントリックでも無ければ、非論理的とも言えないのです。
  • 注9:同書が主要な分析ツールとして頻用する人口統計学は、トッドが専門とするところであり、視点や示唆など共通するところが多い点も注目したいと思います。
  • 注10:同書「日本語版によせて」末尾を引用します。『日本の将来は必ずしも強くも安全でも安定してもいないかもしれない。しかし比較的強く、比較的安全で、比較的安定しているだろう。で、私は日本の将来を憂えているかって?もちろん、非常に。 しかし、それ以外のほぼすべての国を憂えるほどではない。』

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