松永安左ェ門雌伏の地 柳瀬荘(1)
財界人から茶人「耳庵」へ 松永翁が柳瀬の地で磨いた感性と心配り
電中研創設者松永安左ェ門は茶人としても名を馳せましたが、茶の湯に目覚めたのは還暦近くのことでした。戦後日本の経済成長を導き「電力の鬼」と呼ばれる前、松永翁雌伏の時について、柳瀬荘の管理人針生清美さんに伺いました。
――松永翁が柳瀬荘を購入した経緯は?
明治から昭和にかけて、別荘や古美術品、茶室を持っていることがステータスでした。これらを手に入れること自体が簡単ではありませんし、古民家、茶道具などの歴史的価値を理解できる教養、ものを見る目を持った人が敬われた時代でした。
松永翁が柳瀬荘の土地を購入し造営を始めたのは54歳。東邦電力社長に就任し、まさに脂ののった時期でした。仕事だけではない深みを持った人間として、一段大きくなりたいと考えていたのではないでしょうか。
――柳瀬荘の母屋、黄林閣の大きさには圧倒されます…
黄林閣は江戸後期に東久留米の名主、村野家の本家により建てられた古民家です。茅葺屋根の高さは14mありますから、神社仏閣に匹敵します。二重の太い梁がはっきり見える、非常に力強い印象を与える構造です。 これだけの材木を集めるのには相当苦労したのではないでしょうか。豪邸も豪邸ですね。
屋根の高さと梁の力強さが際立つ
松永翁は黄林閣をまだ建ててもおらず譲り受ける話が決まったばかりの頃、1930年5月の柳瀬荘に福澤桃介や小林一三を招いています。せっかちな松永翁のことですからすぐにでも自慢したかったんでしょうね(笑)
――松永翁はここでどんな暮らしをしていたのでしょうか
黄林閣は天井が高いので冬はかなり冷え込むんです。最近文献を調べていて分かったのですが、松永翁は唯一天井が低い広間で寝ていたようです。確かにこの部屋だけ暖かいんですよね。
松永翁は比較的暖かい広間で寝ていたと思われる
松永翁のこだわりが感じられる空間もいくつかあります。例えば奥の間はふすまの引手が1組ずつ異なるんです。 実は買い物控えが残っていて、松永翁が自ら引手を選んでいる。どこにどの引手を使おうか無邪気に悩んでいる松永翁を想像すると、なんだかおかしいですよね。
松永翁はあえてふすまごとに異なる引手を使った
――黄林閣以外にもいくつか建物がありますね
黄林閣と渡り廊下でつながった斜月亭は奥様の一子さんのために建てられました。奈良・東大寺などの細やかな古材を使っていて、黄林閣とは違った柔らかい趣があります。こちらは小さな造りですから、黄林閣より暖かく過ごせます。
寄り付きに掲げられている「斜月」の扁額は松永翁と親交があった近衛文麿の揮毫です。柳瀬荘を訪れた際に、更待月(ふけまちづき)を見て書いたものだと言われています。雅な風格でいかにもお公家さんという感じがします。
近衛文麿が柳瀬荘を訪れた際に書いたと言われている書
それから斜月亭の沓脱石(くつぬぎいし)。くり抜かれたようなくぼみがあるんですが、これ、私は松永翁が近衛文麿と見た月を刻んだんじゃないかと思うんです。更待月に…見えてきませんか……?
写真右下にある沓脱石のくぼみは、松永翁が彫ったものかも…?
次回は茶人「耳庵」としても名高い松永翁の茶室「久木庵」、柳瀬荘で針生さんが一押しの場所をご紹介しながら、柳瀬荘での日々が晩年の松永翁に与えた影響について探ります。
(No.500/2026年6月25日)