電中研NEWS

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「電力の鬼」と呼ばれる前の松永安左ェ門雌伏の時について、柳瀬荘管理人の針生清美さんに伺う特集。後編では、柳瀬荘の茶室「久木庵」や針生さん一押しの場所をご紹介しながら、柳瀬荘での日々が晩年の松永翁に与えた影響について探ります。

  

松永安左ェ門雌伏の地 柳瀬荘(2)

柳瀬荘での暮らしからみる、人間・松永安左ェ門の横顔

――久木庵は質素で落ち着いた空間ですね

久木庵は、江戸時代の前期から中期にかけて武士・茶人として活躍した土岐二三が遺した茶室です。2畳台目の茶室に4畳の水屋がついた簡素な造りです。松永翁はここで多くの茶会を開きました。

茶室「久木庵」は簡素な造りで落ち着いた雰囲気

松永翁はあまりお点前が得意ではなく、形式ばった作法には関心を示しませんでした。度々変わる点前を客人やメディアから「耳庵流」「柳瀬流」などと面白おかしく指摘されています。それでも「酷い」といった批判ではなく、愛嬌として捉えられていた。相手がどんな人でも心を通わせるためのしつらえ、心配りに手を尽くした松永翁の茶は多くの人に愛されたんです。

雪が積もったある日の茶会のエピソードですが、お客様にまっさらな雪景色を見てほしいと、家の者には雪を踏まないようにと言い聞かせ、山に咲く寒椿を飾り、水屋口から茶室躙り口までの道にござを敷き整え、お客様の足元が汚れないよう配慮し、迎えるのです。導線を自在に変える発想力や実行力は流石ですし、寒空の下、椿を切る為、山に入り雪だらけになりながら準備にいそしむ松永翁、何ともチャーミングですよね。

――柳瀬荘で、針生さんが一番オススメの場所はどこですか?

黄林閣の2階です。障子を開けると、黄林閣の特徴である太い梁を見下ろせ、小屋組みを真近に見ることができます。すごいでしょう、この迫力。ふつう2階はプライベートな空間ですから滅多に人を上げないものなのですが、そこは松永翁ですから、大切なお客様や交友の深い友人を連れてきては得意顔で見せていたでしょうね。

黄林閣の2階からは迫力ある梁を眼下に見下ろせる

――柳瀬荘での日々はその後の松永翁にも影響を与えたのでしょうか

松永翁が柳瀬荘を所有していたのは1928~1946年の18年間ですが、小田原の老欅荘に身を移すまでの最後の5年間は柳瀬荘に住み、隠遁生活を送っています。

人との交流が好きな松永翁ですから、隠遁生活といっても非常に多忙でした。特に哲学者の谷川徹三や歴史学者の桑田忠親といった文化人との交流は、公に尽くす松永翁の晩年の生き方にも大きな影響を与えたのではないでしょうか。

――柳瀬荘での隠遁生活は、第二次世界大戦の時期と重なります

松永翁は隠遁生活中も情報収集を怠りませんでした。過去の視察で感じた欧米との国力差や文化人との交流の中で、日本が戦争に負けるということも確信していたようです。

1945年8月15日、松永翁は黄林閣の上の間・次の間で、家族らと一緒に玉音放送を聴きました。 松永翁は涙を流していたそうですが、放送が終わるとすぐに立ち上がり、集まった面々に「さあ皆さん、これからは自由にお茶を楽しめますよ。それでは私からお茶を一服」と語りかけお茶を振舞ったそうです。

松永翁が玉音放送を聴いた上の間、次の間

終戦時には松永翁は70歳を迎えていましたが「次は俺がアメリカと戦う」と奮起します。大病した時も一文無しになった時も、松永翁は挫折する度に一回りも二回りも大きくなって戻ってきた。隠遁生活で蓄えた教養や人間としての深みを携えて、電気事業再編や産業計画会議といった最後の大仕事に臨むのです。

(No.501/2026年7月9日)