社会経済研究所

社会経済研究所 コラム

2017年4月18日

「トランス・サイエンス」について

社会経済研究所長  長野 浩司

 最近、業界のある方に、「トランス・サイエンス」について考えを聞きたい、というお声掛けを戴きました。以下は、そのときにお話ししたこと、及びその際ご出席戴いた方々から頂戴したご意見、ご示唆を踏まえてさらに考えたこと、の概要です。

 結論だけを先に申し上げると、以下のようになります。
あまり前向きないしポジティブな情報がなく、心苦しく思うのですが…

  • 「トランス・サイエンス」は、そのような何かを指し示す「ラベル」としては有効であるが、現実の問題の解決に役立てるためには未だ定義が十分明確とは言えない上に、トランス・サイエンスの両側から接近する努力をいかにしても「こぼれ落ちる」「届かない」要素が存在する。
  • 「安全・安心」の構造をひも解くと、信頼の構造に行き当たる。現在の原子力については、長年にわたる政治的な過熱状況の下で、信頼の構造が揺らいでおり、早急に再確立する術もない以上、とくに当事者である事業者にできることは多くない。
  • 原子力にはリスクが伴う一方で、メリットもあることは事実である。しかし、一般市民にとっては原子力の選択はInvoluntaryなものと認識されており、付随するリスクもメリットも「他者から押しつけられた」ものになる。これも、トランス・サイエンス的な取り組みにおいては難しい課題を突き付ける。

○トランス・サイエンスの定義、もしくは未定義

 「トランス・サイエンス」なる語を提唱したのは、米国オークリッジ国立研究所長のAlvin Weinbergであり、Minerva誌に発表した論文”Science and Trans-Science”において、「科学によって問うことはできる(A)が(but)、科学によって答えることのできない問題群(not B)からなる領域」(注1)として提示されたそうです。Weinbergのより詳細な定義には、さらに問うべき要素があるのですが、ここではこの根本定義が’A but not B’というものであることを指摘しておきます。

 大阪大学の小林傳司教授は、著書「トランス・サイエンスの時代」(注2)において、科学技術が巨大化・複雑化し、「利便性だけでなく問題も引き起こしている」あるいは「問題を解決できない場面」も生じていることを指摘した上で、「社会と科学技術がどうすれば良好な関係が産み出せるか」という今日的・汎世界的な課題を生じている現況を「トランス・サイエンス的状況」と定義し、それに接近し埋めて行く営みの重要性を提起しました(以上カギカッコは前掲書より引用)。

これを受けて、小林は、「トランス・サイエンス」の自らの定義として『「科学(客観的事実の領域)」(C)と「政治(価値の領域)」(D)の間の空間』(前掲書、丸カッコ内は筆者付記)を示しています。これは、’Not C nor D’という定義です。

小林は、もともと自らが探し求めていた「2つの領域の間で抜け落ちているもの」に対して、「トランス・サイエンス」なる語が比較的当てはまりが良いとして、いわばラベリングとして使用しているように見受けます。

 しかし、これらの定義をみると、そもそもそれは何なのか?という問いに答えてくれていないことに気付きます。否定形なのですから、存在するかしないのか、存在するとして有限なのか無限なのか、何も答えてくれてはいません。

 さらに、科学と政治の間にあって抜け落ちているものの中には、科学の側からも政治の側からも接近を試みても届かない要素があることにも留意せざるを得ません。たとえば、個々人が持つ「好き・嫌い」といった感情の領域です。あるいは、哲学や根源的な価値観、もしかすると宗教的な倫理感のようなものも、科学の側からも政治の側からも到達できないものなのではないでしょうか。

 別の角度から考えてみましょう。これもよく耳にする語に「リスク・コミュニケーション」があります。これと「トランス・サイエンス」は共通点があるでしょうか。

トランス・サイエンス的領域を解決しよう、埋めようとすれば、何らかのコミュニケーションをツールとして用いざるを得ず、それはリスク・コミュニケーションがその対象を「巨大技術や産業によってもたらされるリスク」と特定されているだけであって、実際の手法や実践はほとんど重なるのではないでしょうか。

そして、リスク・コミュニケーションがそうであるように、トランス・サイエンス・コミュニケーションも、一振りすれば問題が直ちに解消するような「魔法の杖」ではありません。このことを、まず申し上げたいと思います。

○2012年「エネルギー・環境会議」における「国民的議論」

 今となってはほとんどの方にとって忘却の彼方なのではないかと想像しますが、2012年夏に民主党政権(当時)が展開した「エネルギー・環境会議」による「国民的議論」(注3)がありました。詳細は省きますが、「エネルギー・環境政策に関する選択肢」(注4)として3つのシナリオ(2030年時点の原子力の発電電力比率を基準に、ゼロ、15%、20-25%)を置き、これらについて「国民同士が意見交換を行い議論を深める機会を提供しながら、国民各層の意向を丁寧に把握する」等を通じて、「責任ある選択を8月を目途に行い、政策を具体化する」(注5)としました。

 その後、以下の3点を柱とする「革新的エネルギー・環境戦略」(注6)を取りまとめました。

  • 原発に依存しない社会の一日も早い実現:「2030年代に原発稼働ゼロを可能とするよう、あらゆる政策資源を投入する。その過程において安全性が確認された原発は、これを重要電源として活用する。」(注7
  • グリーンエネルギー革命の実現
  • エネルギーの安定供給

 2012年9月19日閣議決定(注8)では、これを踏まえて政策遂行することを謳っています。

 振り返れば、これは政治の側から科学との境界領域に接近し、結論を得ようとしたという意味で、トランス・サイエンス的な実践(注9)として格好の参考事例だったのではないでしょうか。もちろん、得られた結果(結論)については賛否両論あろうかと想像しますが、設定から結論を得るまでのプロセスそれ自体については、今でも功罪両面から検証するに値するものだったと思います。

 当所も調査報告(注10)を公刊しており、とくに『国論を二分しているタイミングでの実施は、参加者が「適度な距離感」を持って「当事者意識」を感じられなかった可能性がある』こと、すなわちこの試みがそもそも困難な時代背景の下に実施されたという点を指摘しています。

○「安全・安心」論の(現時点での、極めて私的な)理解

 よく「安全・安心」と一からげに語られてしまうことの多い概念ですが、その内部構造を少し探ってみましょう。私がよく例に取るのは、路線バスです。私もそうですが、恐らくほとんどの方が、路線バスを利用する際に、そのバスが「安全」な移動手段であると「安心」して乗車しているものと想像します。

しかし一体なぜなのでしょう。乗車したバスの、乗客である自分の安全を支配している運転手は、見知らぬ他人であり、その技量も、あるいは思想信条も知る由もないのです。そこには、少なくとも以下の3つの要素が係わっているのではないかと考えています。

  • 運転手は、自らの「能力」を常に高く保ち、それを十分に発揮することで、自らの雇用を確保したいという「意思」を持っている(はず)
  • バス会社は、運転手の能力を高く保ちつつ十分に発揮させることで、路線バス事業の継続を確保したいという「意思」を持っている(はず)
  • それを、警察などの行政当局が、しっかり監督している(はず)

 ここで重要なことは、その事業や技術に携わる人が「能力」を持っていなければそもそも信頼に値しないという意味で、「能力」は絶対の第一条件ではありますが、それだけでは十分でない、という点です。

持つ「能力」を、乗客や(潜在的に影響を受け得るあらゆる)市民の健康・安全・環境を守るために全力を尽くして発揮するという「意思」と共に持ち合わせてこそ、その事業や技術を「信頼」できる。

この「能力」と「意思」の二重構造(それを外側から指導・監視する監督機能を加えれば、三重構造)が健全に働いていると「信頼」するからこそ、このバスは安全だと信じ、安心してバスに乗車する、ということではないでしょうか。

 では、これを原子力発電に置き換えてみましょう。運転員、電力会社、規制行政当局という三重構造は、路線バスとほぼ同様です。実際の「能力」や「意思」についても、電気事業の内部にいる私どもとして、路線バス会社やその従業員、道路交通行政に比して、少なくとも何ら引けを取るものではないと承知しています。

しかし、原子力が路線バスと大きく違うこと、それも大前提として、上記「国民的議論」の時期とは少し状況が違うとはいえ、原子力が長年にわたり政策論議の的として過熱状態にあり、それに現在もマスコミ報道や訴訟などが油を注ぎ続けているがゆえに、「国論を二分している」に近い状況にあることがあります。

政治の領域での大きなねじれや沸騰点は、科学の側からの働きかけや、それこそトランス・サイエンス的な努力以前の問題であり、まずは政治の領域での努力を要します。こうした政治の領域での過熱の継続を背景として、一般国民がその三重構造に抱く信頼感、とくに信頼の構造を構成する三層の当事者(事業者だけでなく、規制行政当局も)への信頼も、いまだに十分に再確立できたとは言えない状態にあるのではないでしょうか。

もし信頼が揺らいでしまっているとすれば、当事者にできることは、一つ一つ実績を積み重ねることで、信頼を再構築していくことに尽きます。遺憾に思うところではありますが、ここでも魔法の杖はないのではないでしょうか。(注11

 実はもう一つ、重要な点があります。路線バスの場合は、それが危険だと思えばタクシーに乗車する、あるいは徒歩で向かう、といった選択肢があります。利用者でなく歩行者についても、路線バスが危険であり事故に巻き込まれるリスクがあると判断すれば、バスの通らない回り道を選ぶことができます。

ところが、原子力の厄介な点は、一般の多くの方々は、原子力発電を自らの選択として選び取った実感がないのではないか(注12)ということです。一般市民の平均的な認識と比較して、自らの意思で選択した、つまりVoluntaryなものについては、路線バスにせよジェットスキーにせよ喫煙にせよ(注13)、メリットは大きく、リスクなどデメリットは小さく評価しがちです。

これに対して、選択の余地なく他者から与えられた(と感じる)Involuntaryなものについては、自然災害や医療過誤などがその例になりますが、リスクをより大きく感じ、より強く忌避するのです。(注14

○「トランス・サイエンス」的なものへの(現時点で可能な)アプローチ

 トランス・サイエンス的な考察を深めることや、適切な機会と場が設定できるのであれば、それを広げて行く実践を重ねることについては、その重要性を疑う余地はないと思います。

まずは、「科学は正解も解決策も提供できない」問題が存在すること、そして直面している問題が正にそうであることを直視し、認めることから始める必要があります。その上で、何らかの「解決」に向かって進むプロセス(手続き)の議論から始め、参加者間で合意すること、これが第1のステップです。

その際に、「解決」が何であるかは、事前に定義しない、あるいはしてはなりません。先に述べた好悪の感情論や、倫理感といった要素も、予め否定するのではなく、包含できるよう可能な限りの努力をすべきです。

 その上で、事業や技術の当事者としては、特定の「解決」、たとえば施設の立地や操業の実現、を目指さざるを得ません。この場合、当然最初からそれを明示しておくべきですが、それが受け入れられる保証はないですし、受け入れられなければ場が成立しない、実に悩ましいポイントです。

 ですが、難しいからといって拱手傍観しているわけにはまいりません。私どもとしても、今後の社会が必要とし、かつ望ましい「トランス・サイエンス」的な営みに、少しでも接近していけるよう、考察を重ねてまいります。

  • 注1:以下の書籍の和訳に、筆者が注釈としてカッコ内を付記しました。小林傳司「トランス・サイエンスの時代−科学技術と社会をつなぐ」NTT出版(2007)
  • 注2:前掲書。
  • 注3:以下を参照下さい。
    http://www.cas.go.jp/jp/seisaku/npu/policy09/archive01.html
  • 注4:エネルギー・環境会議「エネルギー・環境に関する選択肢」平成24年6月29日。
  • 注5:同上p.16。
  • 注6:エネルギー・環境会議「革新的エネルギー・環境戦略」平成24年9月14日。
  • 注7:同上p.2。
  • 注8:「今後のエネルギー・環境政策について」平成24年9月19日閣議決定。
  • 注9:このときは「トランス・サイエンス」なる語はあまり用いられず、実際に用いられた手法を表すものとして「討論型世論調査(Deliberative Polling, DP)」の語が頻用されました。
  • 注10:馬場、小杉「熟議による社会的意思決定プロセスの課題−エネルギー・環境問題に関する2つの討論型世論調査からの示唆−」調査報告Y12016、電力中央研究所(2013)
  • 注11:より理想的な「信頼」は、当事者の甲と乙が相互に信頼し合うことであり、それにはお互いの意見だけでなく、その意見が拠って立つ価値観までも理解し合うことを要求します。たとえば原子力発電においても、立地市町村周辺で展開している全戸訪問などの取り組みにおいては、このような考え方も参考になります。しかし、路線バスも原子力発電も、それに係わる(影響を受ける可能性がある)全ての人々とそのような相互理解を構築することは恐らく不可能でしょう。現実的に獲得可能な、そしてそれゆえにまず目指すべきは、「能力」と「意思」に対する信頼を確立し、「彼らがやるのなら任せよう、やらせてやろう」という、言わば一方向の白紙委任的な承認なのではないでしょうか。
  • 注12:1954年の国会「原子力予算の成立」などの歴史を熟知するがゆえに、現在もそのような認識をお持ちの方もおられるかとは思いますが、残念ながら今や日本国民のマジョリティとはいえないでしょう。この意味では、いずれかの時点で、日本の社会全体として、原子力を自国に必要なエネルギー源として改めて選び取るということができれば、本稿で述べたような状況も大きく換わると思います(が、これは難しいですね…)。
  • 注13:とくに自らが選択した上で操縦する自家用車やバイクなどのマシン、あるいは飲酒などの行動は、そのプロセスや結果について、自分で制御できるという実感(コントロール感、あるいは効力感)を強く持つほど、メリットに比較してリスクを小さく制御できると確信しがちです。一般の方々にとって、制御可能性にどこまで想像が及ぶか、これも複雑な巨大技術にとっては厳しい要素です。
  • 注14:このあたりのリスク認知論は、当分野の大家である米国のSlovicをはじめ数多の専門家の業績が豊富にありますが、あえて一例として、中谷内一也「リスクのモノサシ−安全・安心生活はありえるか」NHKブックス(2006)を挙げておきたいと思います。なお、私ども社会経済研究所でも、一般の方々のリスク認知の度合いについて、1990年代後半以来、アンケート調査によって分析して来ました。最新の報告は、以下を参照下さい:小杉「環境・エネルギー問題に関する世論調査-東日本大震災から3年後の人々の意識-」研究報告Y14004、電力中央研究所(2014)

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    2017年4月1日現在

  • 電力経済研究

    2018年4月26日更新

  • 社経研コラム class=

    2018年5月11日更新

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